例年のように、最後に、◆2022年のクラシック・ミステリ◆という年間回顧を書いています。
今月は大豊作。普段の月なら、最初から四冊どれがトップに来てもおかしくない。
■アルジス・バドリス『誰?』
〈奇想天外の本棚〉第4弾は、アルジス・バドリス『誰?』(1958)。バドリスは、SF作家として知られ、『無頼の月』(1960) などの翻訳あり、本書もSFスパイ・スリラーと帯には書かれている。しかし、仮面の男の正体をめぐる謎解き物として読むことも可能で、本書はミステリファンにもアピールする内容だ。かつて、1984年には、ソノラマ文庫海外シリーズから『アメリカ鉄仮面』として翻訳刊行されたことがあり、筆者も心の「ミステリ裏ベスト」の本棚にそっと収めたクチ。
中央ヨーロッパのソ連と西側連合国の国境近く、極秘のK88計画の実験に参加していたアメリカの天才物理学者マルティーノは、実験中に大爆発に遭い、ソ連の病院に収容されてしまう。3か月後、国境線のゲートから帰ってきたのは、卵型の金属の仮面をつけ、体のほとんどが機械でできた体になった男だった。仮面の背後の彼は果たしてマルティーノなのか。
本書がSFと呼ばれるゆえんは、当時としては、男の体に高度に発達した医療技術を用いているところのみであり、その他の面では、1950年代の冷戦下の現実とほぼ異なるところはない。本書では、冷戦下の極秘計画をめぐる西側連合国とソ連の虚々実々の駆け引きが一人の異形の男を巡って展開されることになる。
連合国政府の保安局長ロジャーズは、大勢の科学者を動員して仮面の男がマルティーノなのかを探るが、決定的な証拠は見出せない。連合国政府は、仮面の男をアメリカに戻し、泳がせることとする。
現在進行形のストーリーの合間に、マルティーノの半生がカットバックされる。このマルティーノの若き日々がこの小説のひとつの読みどころでもある。ニュージャージ州のイタリア系農家の家に生まれ、忙しくも孤独だった思春期。物理教師に感化を受け、将来を決意したハイスクール時代。NYに出て、学費のためのバイトにあけくれ、勉学のため恋愛はしないと決めていたのに、都合のいい女を求めて孤独な少女に声をかけてしまった後悔…。誰にでも覚えがあるような青春の姿がある。
仮面の男は、NYで、マルティーノの半生を追憶するような行動に出て、過去と現在が縒り合されていくが、依然として男の正体は判らない。
本作は冷戦下で圧殺された個人の悲劇を描いてはいるが、そればかりではない。全編を貫いているのは、「自分とは誰か?」というアイデンティティの問題。それは、仮面の男を追跡するロジャーズにも課せられる問題でもあり、マルティーノの半生に郷愁をそそられ、わが身を振り返る読者にも切実に響いてくる問題でもある。
仮面の男の意外な告白で現在の物語は切断され、物語は近過去に飛び、始まりに向けて物語の円環は閉じる。見事な語り口だ。読者は、仮面の男の切断された現在のその先を思い、茫洋とした思いにとらわれるに違いない。
蛇足。昔、同じく『アメリカ鉄仮面』を読んだ男が、仮面の男と、マルティーノの元女友達の娘と出会うシーンを再現して見せた。思わず笑ってしまったが、懐かしい。
■ポール・ケイン『七つの裏切り』
ポール・ケインは、レイモンド・チャンドラーが「ウルトラ・ハードボイドのある種の頂点」と称したハードボイルド作家。長編は唯一『裏切りの街』(1933) があるだけだが、短編集が一冊遺されており、本書『七つの裏切り』(1946) はその邦訳になる。ケインは、1930年代半ばには、主戦場の「ブラック・マスク」誌から消えてしまうが、本書の訳者・木村二郎氏が1980年代に渡米した際、ウィリアム・F・ノーラン、ジョー・ゴアズ、ビル・プロンジーニというハードボイルド界の名だたる三人が異口同音に、ケインが一番ハードボイルドだと答えたという、まさに伝説の作家である。
本編に収録された七つの短編はいずれも「ブラック・マスク」に発表されたもの。ハメットをさらに切り詰めたような文体で書かれ、切れば血が流れそうだ。地の文で「説明」ということをしないから、何が進行しているのかすぐには判然せず、最後になっても主人公が何を職業としているのかすら判らないのも多い。ときに筋の運びに飛躍があるようにもみえ、それが映画でいうジャンプカットのような独特の印象を残す。複雑なプロットを好み、短編としては盛込みすぎのようにも映る。
「名前はブラック」 小さな街で「マッケアリー」と言って死んだ男。おれは、マッケアリー親子に接触し、巧妙な手口で目的を果たす。
「”71”クラブ」 ギリシャ人の闇酒場経営者殺しの真相。短編に似合わぬプロットの複雑さ。主人公の人妻への愛情がいいアクセントになっている。
「パーラー・トリック」 おれが入ったとき、部屋には死んでいる男と、二人の男女がいた。生きている男は殺人を告白するが、女の裏切りはもっと酷薄なものだった。
「ワン、ツー、スリー」 鉄道会社から15万ドルを騙し取った男を追うおれは、男と近づきになるが、男は射殺され近くに女の死体があった。これも真相は複雑だが、ユーモラスな味もある。
「青の殺人」 ギャンブラーの銃殺と職業ダンサーの死につながりを見つけた主人公は、次のターゲットと目した相手にボディガードを名乗り出る。青年の危険なアルバイトの顛末は。
「鳩の血」 保険金詐欺の対象となったルビーの奪還と人妻の命を守ることを約束したトラブルシュータ―に成算はあるのか。謎解きと見事な決着があり、判りやすさでも随一。
「パイナップルが爆発」 床屋で爆発を引き起こしたパイナップル爆弾の狙いとは。事件を追う記者の活躍。百万長者の新聞記者という設定もいい。
いずれも、禁酒法下ギャングが蔓延る社会を舞台にしているが、台詞と行動で事件を語らせるスタイルとプロットの錯綜は、ときに内面を欠いた抽象絵画のようでもある。どの一編をとってもアンソロジー収録の価値がある殿堂入りの名短編集。
■ウィンストン・グレアム『罪の壁』
本作『罪の壁』(1955) は、第1回CWA最優秀長編賞の受賞作。今までなぜ邦訳がなかったのか不思議だが、新潮文庫の〈海外名作発掘〉シリーズにふさわしいセレクションといえる。ウィンストン・グレアムは、ヒッチコック映画「マーニー」の原作で知られる英国作家。ハヤカワ・ポケット・ミステリに『夜の戦いの旅』(1941)『幕が下りてから』(1965) などの翻訳がある。
米国の航空機メーカー社員フィリップは、考古学者の兄がアムステルダムの運河で身を投げたとの知らせを受ける。自殺は兄には無縁なはずだと、死因に不審を抱いたフィリップは、元軍人のマーティン・コクソンの援助を得て、ともにアムステルダムへ飛ぶ。兄の死には、謎めいた友人と恋人らしき女性が関わっているようであり、その行方を追って、さらに南イタリアのカプリ島へ向かう。
第二次大戦後、英国において、国外を舞台にしたミステリが流行した印象があるが、本書はその流れを汲むもの。といっても、本書はスパイスリラーというわけではなく、あくまで、敬愛する兄の死という個人的事情に基づく探偵行為を描いた作品である。主人公の恋愛を絡めている点や生き生きと描かれる海外のエキゾティズムは、ちょっとメアリー・スチュアート作品の男性版を思わせるところがある。
この小説は、主人公と兄そして二人の男女と主人公の関わりの物語でもある。
ジャック・バッキンガムという男は、生前ジャワ島で発掘をする兄に近づき、兄はその高い知性と教養、人柄に絶大な信用を置いたらしい。兄の残した手記からは、熱狂的ともいうべきバッキンガムに対する賛辞が伝わってくる。一方で、彼は、近東や極東で揉め事を起こした国際的な不穏分子でもあるようだ。
レオニーという女は、国籍も知れない20代半ばのブロンドの謎の女。カプリ島でようやくレオニーに追いついたフィリップは、この女のためなら兄が自殺することもあり得るかもしれないと考える。島で近づきになっても、頑なに何かの秘密を隠している女は、絶品の佇まいを見せる。
本書の際立った魅力は、主要な人物の個性がよく書かれている点で、フィリップや二人の男女のみならず、脇役であるマーティンやカプリ島の女主人マダム・ヴェーバー、大佐といった人物像も鮮やかだ。兄の死の謎を探るフィリップは、結局のところ、バッキンガムとレオニーという二人の男女の謎と深く向き合わなければならない。
ミステリとしてのサプライズは、物語の後半で訪れる。兄の死の謎解きには近づくが、沸き立つような感情がフィリップを襲う。サプライズの後の善悪のモラルを巡る長い会話からも、この小説がモラルの問題をテーマにしていることは明らかだ。フィリップの恋愛感情も絡みながら、善悪のモラルの物語に転調し、深みのある人間ドラマが展開する。
素人による探偵物語が、関係者の性格や秘めた謎を、薄皮を剥がしていくように明らかにし、人間探究のドラマにもなり得ることを本書はよく示している。第1回のCWA最優秀長編の栄誉に輝いたのもその辺りに着目したのではないだろうか。
陽光に照らされたカプリ島の景勝地の情景や風俗のエキゾティズムも良し。本書は、男女の心の旅路を描いた優れた探索のロマンである。
■H・C・ベイリー『ブラックランド、ホワイトランド』
『ブラックランド、ホワイトランド』(1937) は、フォーチュン氏物の短編で名高いH・C・ベイリーの長編。この作家の長編では、『死者の靴』が紹介されているが、こちらは、もう一人の探偵役ジョシュア・クランク物であり、9作あるフォーチュン氏物の長編としては、初の邦訳となる。
レジナルド(レジ―)・フォーチュン氏は、文学修士、医学学士、化学学士の肩書を有し、普段は研究にいそしむ中年の紳士。童顔の持主で、美食と酒をこよなく愛する博識家。「頭のてっぺんから足のつま先まで合理的かつ道徳的。それがわたしという人間だ」(本書)
本書で扱われる事件は、「みずからの初期の代表作」とフォーチュンは自負している。
物語の舞台は、イギリス南部の架空の農村、ダーシャー州コルスバリー。丘の斜面に〈ロングマン〉といわれる巨人像が浮かび上がり、白亜の丘に穿たれた複数の竪穴〈巨人の墓〉があるこの地で、なんと古代の巨人の骨が発見されたと友人のデュドン将軍から知らせを受けたフォーチュンは、コルスバリーに駆けつける。ほどなく、巨人の骨は勘違いと判明するが、フォーチュンは、発掘現場で現代の少年の骨を発見する。果たして、10数年前、当地では、地主の息子の失踪事件が起きていた。骨の発見は、殺人を物語るのか。
事件は、舞台の設定と切っても切れない。この地では、数千年にわたって、肥沃な土地〈ブラックランド〉と「羊ぐらいしか育たない不毛な」白亜の土地〈ホワイトランド〉を巡る争いが繰り返され、ノルマン人、サクソン人、ケルト人から現代に至るまで連綿と続いている。少年の骨の発見を契機に、人々の憎悪がむき出しになり、一見のどかな農村を震撼させる事件が相次ぐ。
英国の田園物は数多くあれど、有史以来続く農村地帯の肥沃な土地争いが題材となり、人々の憎悪と欲望をあぶり出す作品は稀だろう。ダーシャー州警察本部長や地元の警視すら、捜査に積極的になろうとしないのに、フォーチュンは困惑する。それは、彼らも地元の地主を頂点とするヒエラルヒーに組み込まれているからにほかならない。
物語は、短い章を積み重ね、テンポ良く進んでいく。少年の死の捜査がはかばかしく進展せず、フォーチュンがロンドンに戻っているときに、意想外の殺人事件が起きる。ここから畳みかけるように事件が相次ぎ、読む者を飽きさせない。地元の警察にたよれないフォーチュンは、スコットランドヤードのローマス犯罪捜査課の部長に支援を求める。フォーチュン自身も白亜坑に落とされ毒ガス死させられそうになるなど悪戦苦闘の中、巧妙に事件の真犯人を追い詰める。
最後まで容疑者が目まぐるしく変わり、なかなか犯人が特定できないところが、もどかしくも、読み応えがある。犯人解明の手がかりはなかなか見事だが、犯行に至る経過がやや説明不足気味だ。
読者が当然抱く疑問に、終幕でことの真相が明かされ、フォーチュン流の正義が明らかになる。フォーチュンの探偵としての特異な立ち位置が終幕で示されるのだ。
有史以来の土地争い、富と結びついたヒエラルヒーに翻弄され、苦悶する人たちの悲劇として事件を描くのが作者の眼目であり、フォーチュンは、その悲劇の調停者にほかならない。このスケールの大きさは、当時のミステリとしては、珍重に値する。
■ベルトン・コッブ『善意の代償』
ベルトン・コッブ『善意の代償』(1962) は、論創海外ミステリで既訳のある『悲しい毒』(1936)、『ある醜聞』(1969)と同じくチェビオット・バーマン警部物(1962)。『ある醜聞』では、人妻警官になっていたキティー・パルグレーヴが実質的主人公の役割を果たしており、彼女の独身時代、ロンドン警視庁女性捜査部(そういうのがあったのか) に勤務していたときの事件が扱われている。既に紹介された両作とも小さな真珠とでもいうべき本格センス溢れる作だっただけに、短めの長編だが、本作の期待値は高い。
キティーは、婚約者の捜査部巡査部長からバーマン警部のもとを訪ねた情報提供者の話を聴く。ある男の命が狙われているというのだ。積極的な捜査をしないことを説明されたキティーは、一週間の休暇をとり、問題の下宿屋で潜伏調査をすることを独断する。下宿屋は、大金を得た老婦人が貧しい男性向けに下宿料をとらずに営んでいるという風変わりなもの。老婦人は、1ペニーもとらないにもかかわらず、下宿人たちに楽しんで過ごしてもらおうと必死だ。
女中として、下宿屋に潜り込んだキティーは (老婦人がキティーの器量の良すぎるのを心配する一幕あり)、一風変わった下宿人や老婦人の息子夫婦と出会う。息子にはさっそく口説かれたりもするが、到着後の深夜には早くも殺人事件が発生する。
連絡をとったキティーの行為にバーマン警部は冷ややかだったが、そのまま女中として住み込み、警部の補佐をすることを命じられる。女性の潜入捜査というと、M・R・ラインハートのヒルダ・アダムズ看護婦を思い起こすが、あちらに比べると、警部がほぼ常駐しているだけ、頻繁な情報提供が可能だ。婚約者の巡査部長が捜査に携わるのも、いいくすぐりになっている。
キティーの捜査により、下宿人は、それぞれ裏の顔をもっていること、息子夫婦も下宿人と関連があることなどが次第に明らかになる。
下宿の一同を集めてのバーマン警部の謎解きは、朝食時だ。情報提供者の意図には工夫がうかがえるが、犯人に至るロジックは心理的なものにしてもやや弱い。期待値を高くしすぎたが、老婦人はじめユニークな下宿人たちの個性、潜入捜査の面白さを主眼としたライトな謎解きものとしてみれば悪くない。
■A・A・ミルン『赤屋敷殺人事件』[横溝正史翻訳セレクション]
本書は、横溝正史によるA・A・ミルン『赤い館の秘密』(創元推理文庫のタイトルによる) の翻訳。『赤い館の秘密』は、くまのプーさんの生みの親、ミルンによる黄金期の名作として名高いが、横溝正史の大阪薬専の学生時代、いわゆる本格ミステリの傾向の作品として、最初に出逢った作品という。
本人が読んだのは、海外の雑誌の連載で、「神戸の古本屋で全冊見つけて揃えると、汽車の中で、教室で、講義もそっちのけにして、教師にかくれて
後に、編集者兼業から作家専業になる節目、博文館の編集者として最後の仕事に、本書を雑誌「探偵小説」に浅沼健治名義で訳したのも、作家の深い思い入れによるものだろう。
本作は、原作の6割強の抄訳で、各場面の出来事や科白を自身の文章で全く新たに書き起こす“超々訳”とでもいうべきものだという(解説・浜田知明氏)。戦後の本格物の長編で大成する作家の成立過程を知る上でも、重要な訳業といえるだろう。
面白いのは、正史は、金田一耕助の原型を本書の探偵役アントニー・ギリンガムに求めていると何度も述懐し、『本陣殺人事件』にも、「どこかアントニー・ギリンガム君に似てはいわしまいか」と書いているにもかかわらず、「ギリンガムと金田一耕助には似かよったところは見いだせない」(解説) という。不思議なことだが、遺産で暮らし、人間を知るために、下男になったり、新聞記者になったりと興味本位で職を転々とするギリンガムの飄々とした風来坊的性格のほうに金田一の原型を見出したのかもしれない。
さて、『赤屋敷殺人事件』は、抄訳といえども、正史を瞠目せしめた構成の面白さは、十分に出ている。
オーストラリアからやって来た男が書斎で殺され、その弟で赤屋敷の主人が消えてしまった難事件をひょんなことから、素人探偵ギリンガムが担当することになるという筋だが、大ネタは覚えていても、推理やディスカッションにより、真相に肉迫していく面白さやミスディレクションが巧みに書かれていることに改めて感じ入った次第。特に、発見者がなぜ部屋の様子を探るために、遠回りのルートを走っていったかという謎解きは、優れている。ミルンの原作には、探偵小説のパロディめいたところもあるのだが、ロジックやプロットの精妙が本物のそれに似すぎて超えてしまったがゆえに、探偵小説の里程標になったというのは皮肉でもあり、面白いところだ。かくして、ギリンガム君という素人探偵の存在が金田一耕助を介して数々のフォロワーに受け継がれていったところにも、ミステリ史的な愉快さがある。
なお、横溝正史次女の野本瑠美氏の巻末エッセイ「父を支えた猫たち犬たち」は、周囲から愛され、犬猫を愛した父・横溝正史を綴って、所々涙が浮かんだ。
■アーサー・コナン・ドイル/アーサー・モリスン 南陽外史訳述/高木直二編『不思議の探偵/稀代の探偵』
本書は、明治32 (1899) 年に「中央新聞」に連載された『シャーロック・ホームズの冒険』全12作の翻案とアーサー・モリスンの「マーチン・ヒューイット」シリーズからの5編の翻案を120年以上の時を経て初単行本化したもの。南陽外史の翻案は、黎明期のホームズ潭紹介の先駆けとして著名なもので、日本への探偵小説移入史を知る上でも意義ある単行本化だろう。
意外なのは、翻案版ホームズ譚の舞台がドイツのベルリン (伯林) になっていることで、その辺りの事情は、編者による解説に詳しい。
当時の翻案の常だったように、登場人物や地名は和名になっており、風俗も読者に分かりやすいように一部日本風になっている。ホームズ、ワトソンともに、その名は出ず、「大探偵」「医学士」と呼ばれている。べーカー街 (Baker St.) が
和風化の傑作は、以前にも紹介した「赤髪組合」の翻案、「
「まだらの紐」の翻案は、「毒蛇の秘密」(この邦題は結構罪つくり) 。ロイロット博士の義理の娘ジューリアとヘレンの日本名が「つる」と「かめ」。ジューリアの死に際の台詞「まだらの紐が!」が、「つる」の「鉢巻を
と、現代の眼から見て、可笑しいところは数あるが、翻案そのものは、事件前のホームズとワトソンの会話などはカットされているものの、事件の再現にはかなり忠実。日本の読者にも探偵譚の面白さを伝えようとする涙ぐましい努力が伝わってくる。
「ストランド誌」でホームズ譚の連載が終了すると、これを引き継ぐ形で連載されたマーチン・ヒューイット物が翻案されたのは、必然の流れだったのだろう。
こちらは、マーチン・ヒューイットには、鷲尾数馬という名を当て、ロンドンの探偵となっている。「レントン館盗難事件」「フォガット氏の事件」「ディクソン魚雷事件」等が翻案されている。ホームズ譚と比べてみると、推理の面白さは劣らないが、ワトソン役が不在というところが、やや弱いか。
南陽外史は、明治2年生まれ。新聞記者の仕事のかたわら、数多くの翻案小説を発表。後に実業界に転じる。齢80余年を過ぎた南陽翁は、代表作『魔法医師ニコラ』のことも、その訳のこともすっかり忘れ去っていたという。
◆2022年のクラシック・ミステリ◆
薄明りはありつつも、2022年もコロナ禍は続いた。これで3年目だ。先日、5月のコロナの五類移行が決まったようだが、我々の暮らしも長いトンネルから抜け出せるだろうか。
クラシック・ミステリは、例年以上に充実したラインナップだった。「これは」と思った作が軽く十指を越えてしまう。けれども、各種ベスト10の上位には来ないのは、クラシック復興ともいうべき謎解き興味中心の現代作品が増えてきているせいでもあるだろう。それはそれで慶賀すべきことであり、ファンとしては、クラシック作品、現代作品のそれぞれの良さを体感したいところだ。
2022年は、原書房から3冊が出て途絶していた、製作総指揮・山口雅也による「奇想天外の本棚」シリーズが、版元を改め国書刊行会から再始動となったのが、読者にとっては嬉しいところ。
新潮文庫では、海外名作発掘プロジェクト「HIDDEN MASTER PIECES」が始動。ライオネル・ホワイト『気狂いピエロ』、ドナルド・E・ウェストレイク『ギャンブラーが多すぎる』、ポール・ベンジャミン『スクイズ・プレー』を出して話題を呼んだ。
論創海外ミステリはコンスタントに充実作を紹介し、300巻に向け刊行数を延ばした。
刊行数こそ少ないが、扶桑社ミステリーでは、『レオ・ブルース短編全集』などの注目作を出している。
ルリユール叢書からドロシー・L・セイヤーズ『ストロング・ポイズン』が出たが、「男性によって制度化された探偵小説というジャンルを問い直した」という問題意識を提示、翻訳も一新された。こうしたクラシック作品の読み直しの試みは歓迎すべきだろう。
プライベートレーベルでは、相変わらず、ヒラヤマ探偵文庫が独自のセレクションで旺盛に古典作を紹介。新たにホームズと並び称されるヒーロー探偵「セクストン・ブレイク・コレクション」が始まった。
2023年初頭は、今年も多くのクラシック作品に出逢えそうな予感に満ちている。
*掲載月の関係から、一部2021年刊行作を含む。タイトル後の数字は、掲載月。
■古典期■
ヒュー・コンウェイ原作の『ダーク・デイズ』(1884)を翻案した黒岩涙香訳述 高木直二編集『法庭の美人』1の刊行があった。
アントン・チェーホフ『狩場の悲劇』7は、ロシアの文豪による時代を超えた独創的ミステリの久しぶりの刊行。
レオン・サジ『ジゴマ(上・下)』8は、国書刊行会「ベル・エポック怪人叢書」の第1巻。映画化により欧日を席巻したダークヒーロー物の原点。ガストン・ルルー『シェリ=ビビ最初の冒険』11は、その第2巻。破天荒ながら筋の巧妙さでは屈指の悪漢小説。
ピエール・マッコルラン『北の橋の舞踏会 世界を駆けるヴィーナス』8 『北の橋の舞踏会』は、ジャンル確立以前の原=スパイ小説のような趣。
R.L.スティーブンソン『カトリアナ』3歴史冒険小説の雄編、『さらわれて』の続編。
ヒラヤマ探偵文庫のセクストン・ブレイク・コレクションとして、加藤朝鳥訳『
■黄金期■
ジョン・ロード『デイヴィッドスン事件』6名探偵vs名犯人の図式が生々しく息づく本格ミステリ。ヘンリー・ウェイド『ヨーク公階段の謎』9ミステリ特有の意外な展開と謎解きの醍醐味を探求。ドロシー・ボワーズ『アバドンの水晶』12 サスペンスに幻想味に恐怖、フェアな謎解きにサプライズと、見事に構築された逸品。ほかにも、マックス・アフォード『暗闇の梟』12、G.D.H.&M・コール『クロームハウスの殺人』6などがあった。
「奇想天外の本棚」の再起第一巻となったH・H・ホームズ『九人の偽聖者の密室』10は、カーの「密室講義」に挑んだ名作で、初単行本化。同時期に、アントニイ・バウチャー(H・H・ホームズ)『密室の魔術師』が旧訳で出たのには驚かされた。
ジプシー・ローズ・リー『Gストリング殺人事件』11は、クレイグ・ライス代筆とも噂のあったバーレスク界が舞台の活力あふれる作。
エツィオ・デリコ、カルロ・アンダーセン『悪魔を見た
アメリア・レイノルズ・ロング『ウィンストン・フラッグの幽霊』7 アメリカンB級ミステリの女王の翻訳4冊目。
P・G・ウッドハウス『ブランディングズ城のスカラベ騒動』4 作者の初期に属するのびのびとしたユーモアが横溢。
ドロシー・L・セイヤーズ『ストロング・ポイズン』10 『毒を食らわば』の注目すべき新訳。
■ポスト黄金期■
レックス・スタウト『殺人は自策で』3 プロット本位の楽しみも味わえる佳編。
パメラ(パミラ)・ブランチが2冊も出たのには驚き。『死体狂躁曲』11 『ようこそウェストエンドの悲喜劇へ』8 は、独自のスラプスティックミステリの世界に誘ってくれる。
■サスペンス■
ジョルジュ・シムノン『運河の家 人殺し』5は、純文学志向の作品ながら、作家の特質が良く出た犯罪小説として読める。
フレデリック・ダール『夜のエレベーター』8は、トリッキーな仕掛けは謎解きファンも喜ばせよう。
パトリシア・ハイスミス『水の墓碑銘』3は、30年ぶりの改訳。同じ作者による『サスペンス小説の書き方』と併せ読みたい。
アブラム・デイヴィッドスン『不死鳥と鏡』10異世界描写と奇想の濃密さに圧倒される。
レオ・ペルッツ『テュルリュパン』4 巨大な陰謀がなぜ一人の床屋によって阻止されうる理路を必然として描いたペルッツ流歴史小説。
アルトゥーロ・ペレス=レベルテ『フェンシング・マエストロ』11 高城高氏の手による初翻訳。フェンシングに材をとった歴史ロマン。
■ノワール/ハードボイルド/警察小説■
ライオネル・ホワイト『気狂いピエロ』5ゴダール映画原作の初訳。運命の女がロリータというノワール作。
ジム・トンプスン『反撥』11『テキサスのふたり』7初期と後期のトンプスンの違った顔。
懐かしき正統ハードボイルド物、バート・スパイサー『嘆きの探偵』1のほか、フランク・グルーバー『ケンカ鶏の秘密』7があった。
『ギャンブラーが多すぎる』8『平和を愛したスパイ』10と60年代のドナルド・E・ウェストレイクの翻訳が2冊出たのは嬉しい。
ポール・ベンジャミン『スクイズ・プレー』9は、NY三部作の著者ポール・オースターの別名義による完璧なハードボイルド作品
■短編集■
レオ・ブルース『レオ・ブルース短編全集』5は、海外でも出ていない短編全集。掌編ながら個々の質も高い。
リチャード・レヴィンソン&ウィリアム・リンク『突然の奈落』7 『皮肉な終幕』に続く、軽妙洒脱、切れ味のいいオリジナル短編集。
ドロシー・L・セイヤーズ『ピーター卿の遺体検分記』1 第1短編集の完訳(1編を除く)。
モーリス・ルヴェル『地獄の門』5 人間の暗部をコント(短い物語) 既訳書と重複のない36編を新訳で。
ジェレット・バージェス『不思議の達人(下)』8、21世紀初頭のNYを舞台に、不思議な男女の結ぼれと謎解きを描くファンタスティックな冒険譚。
浅倉久志編・訳『ユーモア・スケッチ傑作展1』1、『ユーモア・スケッチ傑作展2』2、『ユーモア・スケッチ傑作展3』4、『すべてはイブからはじまった ミクロの傑作圏』5 早川書房から三巻本で刊行された『ユーモア・スケッチ傑作展』(1978~1983) 等を中心に、全四巻の大全。ソフィスケートされた笑いを求める読者への無類の贈り物。
小森収編『短編ミステリの二百年6』1 全6巻の完結。これに対抗するように、戸川安宣編『世界推理短編傑作集6』3 が出たのには驚いた。
ウォーターズ『ある刑事の回想録』12「クイーンの定員」第2番。刑事ドラマの祖型ともいえる作品集。『ニューヨーク・ネル 男装少女探偵』10は、草創期の女性探偵物を集めた。
■評論その他■
パトリシア・ハイスミス『サスペンス小説の書き方』3、創作に関わる書き手の姿勢を中心に綴り、ハイスミスの横顔も浮かび上がらせる。
松坂健『海外ミステリ作家スケッチノート』6 2021年に急逝した著者による76人のミステリ作家の斬新なスケッチ。
風間賢二『怪異猟奇ミステリー全史』2 視野の広い文化史的側面からのアプローチが魅力。
野崎六助『快楽の仏蘭西探偵小説』12 フランス探偵小説の全体像を提示しようとした二段組み660頁を超える大冊。
『都筑道夫創訳ミステリ集成』3 児童向けミステリ・SFを3作一挙に復刻。原作を大胆に書き返るツヅキ流「創訳」が味わえる。
「集成」に収録の一編を新たに訳したキャロリン・キーン『ナンシー・ドルーと象牙のお守り』3 との読み比べも可能となった。
■2022年極私的ベスト10 +α■
ストラングル・成田(すとらんぐる・なりた) |
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ミステリ読者。北海道在住。 ツイッターアカウントは @stranglenarita 。 |